鍋春菊のメルティング・ポット

アニメだろうが実写だろうがそれがなんであろうが面白けりゃいい!そんなハンパモンのブログ

新年のごあいさつにかえまして

 年が変わるのは早いもので、あれよあれよという間に2017年がやってきた。2016年気分はちっとも抜けず、初詣にしろ何にをするにせよ自分の脳を騙し騙しでやっている。今回は年始に特に用事もなく、久しぶりに実家で年を越した。家族は居間でガキ使を、僕は独り部屋で草刈正雄さんと星野源さん目当てで紅白を観ていた。ナンダカンダ(藤井隆にも恋ダンスで出て欲しかった)で全部観てしまい、昨年の振り返りを何もせず、ただ覚悟もなく『ゆく年くる年』を観て2017年を迎えた。

 昨年は大変濃密な年だった。それはもう振り返るのが面倒くさくなるくらい、色々なことがありすぎた。禁断の恋に手を出し蒸発(こんなことはもうたくさん)、好きなユニットの解散を悲しみ(そういえば去年の話でした)、二代目の活躍を期待していたものの裏切られ怒りアンチに転身(鋭利に抉ります)、毎週の楽しみは大河ドラマだけ(ブラタモリは毎週ではないので)。大転換を果たした年であったことは言うまでもない。年を経る事に、徐々に、徐々に普通の人になっていっている気がする。友人からは『つまらない』と評価をくだされたが、ボクは道化を演じるつもりは毛頭ないのです。これからも普通の人間として、おだやかな人生を送っていく所存でございます。

 

 しかし全くめでたくない。就職活動という人生の岐路に立たされつつあるのだ。三ヶ月後が恐ろしくて仕方がない。来年の今頃には笑っていられるだろうか。それとも笑うしかない状況に陥ってるのか……いずれにしても、ストレス耐えまくりの一年になることは必死である。若白髪で悩んでいたのが次は十円ハゲ、なんてことになったらいよいよ出家を視野に入れなければならない。

 

 さて、出家と言えばお寺。今年の初詣は山形にある東寶寺に行ってきた。もちろん神様に託す願いはただ一つ、無事に新卒で就職できることのみである。お祈りだけでなく絵馬も書き残してきた。高望みはしない、とにかくブラックじゃない程度に安定した職を所望する!!(これが高望みだと言われたらもうこの社会でやっていける自信ないです)

 その御利益のほどはあまり信じてはいないが、唯一僕が真剣に受け止めるものがある。それはおみくじだ。毎回神社やお寺に行くと必ずと言っていいほどおみくじを引いている。その時の自分が見透かされているような、あたかも神様の声だと言わんばかりに適度に期待を曲げさせ、適度に持ち上げてくれる結果を引き続けているので、おみくじには全幅の信頼を寄せているのだ。

 

 今年の結果は以下の通りだった。

 

 運勢:小吉

 そこそこの楽しさはあるものの、なんとなくしっくり来ないことが多い。

 人数を集めて何かしようとしても肝心な人物が欠けたり、娯楽やスポーツに出かけても事故や災難に巻き込まれるなど、なにかと障害が起こりやすい運期が続くが、この時期協力的な人を大切にすることにより、後々プラスになってくる。

 

 渋い!なんでこんなにネガティブなことばかり書いてあるんだ!全く接待というものを知らん!!

 でもなんというか、相変わらず狙いすましたかのようなゾッとする結果である。今年の運勢を占っているのだろうが、どうも去年がこんな感じだったように思える。また同じような年になるのだとしたら勘弁してほしい。

 というかなんで障害が起こる前提で書いてあるのか、「~する可能性があるが」ぐらいに留めてほしいものである。ショックを受けて初詣客が減ったらどうするのだろう、これは寺にとっても得策ではないはずだ。

 おみくじ業者さん、見ておりましたらその辺り、どうかお願いいたします。


 

   そのようなことはさておき、時間は待ってくれる気配もなく、世の中はつつがなく進行していく。時の流れに身を投げ、行くところまで行く。今はそれしか考えつかない。

   なるようになって欲しいが、今年はどうも壁にぶち当たりそうな気がする。

   同じく就活生になられる方は、頑張りましょうね。今年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

記録

 現在、執筆活動に追われている。コミックマーケット91(2016年12月29日~31日開催)にて頒布する同人誌に紀行文を寄稿(説明省略)することになった。結局友人の誘いに応じたのである。(前記事『陰湿』を参照)

 僕が参加させていただくサークル『ヒトマル式観光』では主にアニメの舞台となった実在する場所を巡る、いわゆる“聖地巡礼”を扱った同人誌を作っている。実際にその場所に赴いてアニメのカット(場面)に合わせて写真を撮り、それらを一冊の本にまとめる。過去に頒布した本は既に読んでいたし、友人から制作背景については聞いていたので大まかな流れは理解していたつもりだった。

 ところがやってみると実に大変な作業だというのが分かる。11月に入ってからすぐに本のための写真撮影をしに2日ほど沼津に行ってきたのだが、天候の問題、交通経路、果ては自身の悪運と本当に苦労した。本当に辛かった。

 紀行文と言っても出てくるのは難行苦行ばかりで、これでは紀行文ではなく単なる制作裏話になるのではという懸念もあるが、そこは僕の腕の見せ所である。

 

 さて、起稿したはいいが出だしをどうするかで迷った。(いつものこととか言わないでください)書きたいことは山ほどあるけど、今回は同人誌。確実に人の目に触れることになるので読者のことを考えなければならない。読んだ人が不快になるようなことは思っていても書いてはいけない。(『愛憎』『陰湿』参照)便所の落書きのようなこのブログとはワケが違うのだ。

 そこで僕は高校の頃文芸部で創っていた部誌に友人が載せていた紀行文の存在を思い出した。たしか彼は千葉に行ったときのことを書いていたはずだが、どう描写していただろうか、彼ならばあの沼津をなんと書き綴るだろうか、参考にしようと思って部誌を探してみた。

 残念ながら僕の求めていたものは手元になかった。きっと実家に眠っていることだろう。アレには高校生の頃の僕が書いた小説が載っている。ともすれば黒歴史にもなりかねないものをこっちに持ってきているはずがないではないか。よくよく考えれば当たり前のことだった。

 しかし彼の紀行文が載っている号は無かったものの、別のものを発見。僕らが卒業した後の部員が作った『第四号』だった。これは今年の夏に文芸部の顧問をしてくださった先生からいただいたものだ。

 一度読んではいたが、興味が湧いて久しぶりに読み返すことにした。自分が関わっていないというだけで、表紙をめくるのは容易かった。

 まずは目次を眺めてみる。今はどうしているかも分からない後輩たちの名前と、そもそも知らない名前が並んでいる。そこに当然、自分の名前はない。懐かしくもあり、寂しくもあった。

 それから彼らが書いた作品を読んだ。僕が言うのもなんだけど、まだまだ荒削り感は否めない。だがそこには書くのが楽しくて仕方がないという“純粋さ”があった。文体からにじみ出る活きの良さに、読んでいて元気をもらえた。

 僕もこの頃は活気に満ちていた気がする。自分専用のパソコンを当時は持っていなかったので、家族共用のパソコンでみんなが寝静まった後も夜通しひたすらキーを叩き続けていたのを思い出す。次から次へと文章が涌いてくる快感を確かに味わっていた。

 今ではそんなことは滅多にない。一時間に何回も詰まってしまって、結果出来上がりが遅れるか、諦めてそのまま放置が当たり前になっている。あの頃の情熱と活きの良さが戻ってきて欲しいものである。

 しかし今回はうだうだ言っていられるヒマはない。久しぶりに締め切りに追われることになって改めて自分の遅筆っぷりを憎む。明日も半徹夜確定だ。

 でも楽しい。自分の書いたものが一冊の本に載るのだから、気合も入る。これは僕にとって久しぶりの“部誌づくり”なのだ。

 

 というわけで、沼津紀行文『さんざんに始まったさんさんな旅』は冬コミにてヒトマル式観光さまより頒布される『ラブライブ!サンシャイン!!聖地巡礼(仮題)』に収録予定です。

 

 

……あと一週間で出来ますかね。

 

 

 

  

 

陰湿

 長期休暇も終わり、いつのまにやら暦は10月、季節は秋になってしまった。秋というにはどうにもまだ暑く、夏が性懲りもなくしがみついているような気もするが。

 今日も相変わらずの雨天だ。降水量を確認しないで外に出るため、ドアを開けた途端にうんざりしてしまう。学校に行くモチベーションも全く上がらない。これでは望まずとも気分は陰鬱になっていく。

 

 実は、この記事を書く前に昨夜下書きしておいたものがあったのだが、故あって没にした。中身は、前々回『愛憎』の続きで、例の作品についてボロカスに綴ったものだ。『愛憎』のときのような愛情半分、憎悪半分といった生優しいものではない。そこには作品憎しの一点でのみで殴り書きされた、批評文とも感想文ともとれないただの悪口がみっちりと書き連ねられた駄文だった。

 昨夜の時点では翌日早朝に清書をし投稿するつもりでいた。誰かに読まれなくとも、自分が抱いている痛みを言葉にしてストレス発散、あわよくば他の人にもこの堪え難い痛みを知ってほしい。

 なあんて荒れ具合だった。

 

 それを思いとどまらせてくれたのが友人との会話だった。夏休み気分が抜けていない僕はなかなか寝付けない、かたや彼は居酒屋でのバイトを終え、まだ余力があるということで、久しぶりに二人で通話をすることにした。

 没になった原稿を書き終えてから間もそれほどなかったため、話は初っ端から例の作品についての悪評から始まった。何人に話したか分からない、いろんな人とのやりとりの中で固まっていった、僕なりの総評を彼はうんともすんとも言わずに聴いていた。

 気が済むまでぶちまけた後、彼から返ってきたのは、

 

「お前心が貧しいな」

 

 という発言だった。僕自身、自分の感覚は間違っていないと自信があったから、その一言には面食らった気分になった。

 発言の中身はと言えば、作品が嫌いにも関わらず見続け粗探しをするなんてどうかしているということで、たしかに正論である。彼の言葉に深く傷つきはしたが、同時にその通りだな、と納得してしまう自分がいた。

 お前はただ拠り所を失いたくないからその作品にしがみついているだけなので、いい加減そこから離れてエネルギーをもっと楽しいことに注げ、とも言われた。

 

 返す言葉もない。

 普通、正論を言われたら多少なりともムッとくるものであるが、彼の言葉だけはすんなりと胸に入ってきた。

 ずっと待ち望んでいた言葉だったのかもしれない。

 

 改めて自分の近況を思い返してみる。なんて嫌なヤツなのだろう。昔の自分ならば作品の悪口なんて滅多に言わなかったと記憶している。その作品の良さを伝えたい、そんな純粋な想いで楽しげに話していた少年の姿は、今や見る陰もなかった。

 

 面白いもんは、面白いと言う。つまらんものはきっぱりと切り捨てる。この原則を肝に命じてきたはずなのに、いつの間にか歯車は狂ってしまったようだ。

 

 自他共に認めていることだが、例の作品への意識は百パーセント憎悪でできている。これでは楽しいわけがないではないか。

 僕は彼の一言で、初めて作品を楽しむことを知った。無論、彼も僕も内に芽生えた不満を否定しているわけではない。世の中には他にも何千という娯楽が存在する。肌に合わないと感じたのなら、乗り換えればいい。いつまでも固執することはないのだ。

 または、その作品の面白いところに目を付け、自らで楽しさを見出すという“遊ぶ”方向に舵を取るか。

 楽しいことに越したことはないのだから……

 

 僕は今しばらく、後者の方で“遊んで”みようと思う。

 幸い、現在とある友人からいっしょに同人誌を創ってみないかと打診されている。作品への認識が変わるいいきっかけになることだろう。

 

 また当初は報復のためにと思って書き溜めていた同人小説だが、送り手にとっても受け手にとっても希望となるような作品にしたい。つまらない復讐に手を染めるのは、もう終わりにする。報復がもたらす連鎖を、ここで断ち切るのだ。

 

 メタルギアソリッドVの主人公、ヴェノム・スネークの台詞をふと思い出した。

『自分の中の“鬼”を棄てて、今日よりもいい明日を創る』

 

 この原稿を書き上げるころには、雨はすっかり止んでいた。

 

 

 

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 万年筆が壊れたと思ったので買い直したのですが、インクがペン先まで注入されていなかっただけのようです。また無駄な出費。

停煙

 大学の期末試験も終わり、夏季休暇に入った。今は秋田の実家に戻っている。

 今回の滞在期間は十日余。インターンシップのことなどを考えて、下旬には準備ができるようにとスケジュールを組んだ。

 以前の帰省にはなかったもの、頭を悩ませる問題があった。タバコである。

 ウチは禁煙で、それは何よりも犬のことを考えてのことである。もちろん僕も愛犬の前でタバコをプカプカさせるほどヒトデナシではない。とはいえ、帰ってすぐに猛烈に

「タバコが吸いたい……」

 という衝動に駆られた。

 前回、GWのときには我慢できたものが、全く辛抱できなくなっていた。5月から吸う本数も一日に一本だったのが二本になり、テスト期間には、勉強へのストレスを解消するために一日に四本も吸うようになってしまっていた。そんな僕がいきなり禁煙などという反動に堪えられるはずもなかった。

 特に辛かったのが食後だ。僕は普段、満腹になってぼうっとしたアタマをすっきりさせるために吸っていたのだが、習慣となってしまった行為が禁止されるというのは心底辛かった。

 結局、帰省初日は、一本も吸うことなくすこやかに過ごした。

 というのはもちろん、皮肉だ。内心は喫煙がしたくて悶々としていた。

 

「吸わせてくれ…一本でいいから、オレにタバコを吸わせてはくれまいか……」

 

 脳裏にはいつもタバコのことがあり、オレは八つ当たり的に暴飲暴食をして鎮めようと試みた。(ああ文章までやさぐれていく……)

 あまりの吸いたさに『じゃがりこ』をタバコに見立てて「すー、すー」と吸い始めたときは我ながらドン引きした。

 ニコチン依存症なのは誰の目に見ても明らかであった。

 

 二日目、家で吸わなければいいのなら、外で吸えばよいのではと考え、中毒のオレは郵便局にも用事があったので、

 「散歩がてら郵便局で金を下ろしてくる」

 と告げ外出し、その足で真っ先にコンビニへ向かい、赤マルの1mm(最近はメビウスよりマルボロ派です)とライターを購入し、早速コンビニ前でふかし始めた。

 煙を肺に入れると、一瞬アタマがクラっとなった。実は秋田に帰る直前に夏風邪をこじらせ、熱もひどく寝込んでいたために吸うのは実に三日ぶりだったのだ。

 久々の喫煙だったので、ヤニクラを起こしてしまったようだった。(だが心配はない)

 その後に全身が騒ぎ出すような、得も言えぬ快感で満たされた。これほどニコチンを渇望していたのかと、これまたドン引きした。

 

 気がかりだったのが、田舎町ゆえ、知り合いに吸っているところを目撃され、母の耳に入りやしないかということだった。(又聞きの又聞きから噂がどんどん広まっていくのが田舎の恐ろしいところである。リアルな人間関係を伝っていくので、ある意味ネットよりも脅威なのだ)

 すぐに一本を吸い終わり、満足したボクは、ややフラフラとした足取りで郵便局へ向かい、次の日に使う分のお金を引き出し、帰路についた。途中、家のすぐ近くにある公園に行き、タバコのニオイを落とすため念入りに手を洗い、芝生で寝そべってにみたり、腕立て伏せをしてみたり、タバコ臭をカモフラージュしようと土でヨゴしてみたりした。

 これならバレないという絶対的な自信があった。

 帰ったときには母もでかけており、僕はダンベルを使ったトレーニングや胸筋を重点的に鍛える上体起こしなど、筋トレの続きをし、つかれた僕は自室に戻り昼寝をした。

 

 そして……夕飯時のことである。オムライスを食べていた僕に母は言った。

 

「ちょっとタバコ臭いんですけど」

 

 スプーンを動かす手が止まる。半分混乱した僕はあくまで平静を装い、

「タバコ? 土じゃなくて?」

「あのね、普段タバコを吸ってない人にはすぐに分かるんだよ、どこで吸ってきたの?」(原文ママ

 

 バレバレだった。おかしい、ニオイはたしかに消したはず。わざわざ服を脱いで確認までしたのに、いったいどこに残っていたのか……

 疑問を浮かべながら、僕はその後の取り調べに素直に応じた。

 

 結局、家で吸いさえしなければいいとお許しをいただいたが、なぜバレたのかどうも腑に落ちなかった。

 

 だが冷静になって今回の敗因を分析した。詰めが甘い箇所がいくつか見つかった。

●どうせ筋トレをやっていたのだから、汗だくになったなど適当な理由でシャワーを浴びて着替えればよかった。

●比較的ニオイがキツくない刻み煙草と、煙管を持ってくればよかった(実はタバコの悪臭の主な要因は巻いてある紙のせいなのである)

 

 そして何より、鼻づまりでニブっている嗅覚を信じてしまったことだった。

 

 この原稿を書いている今は帰省してから四日目だが、出かける機会もあり行く先々で喫煙を楽しんでいる。

 どうやら僕には、禁煙は無理そうだ。

 

 

(追伸)

 私の後に父が千葉から帰ってきた。

 その父が、普通に家の換気扇を回してタバコを吸っていたところを見た。

  

 

 

 

愛憎

『嫌よ嫌よも好きのうち』という言葉がある。嫌と言っている間は口先だけであり、本当は好意がないわけではない、という意味である。

また、『好きの反対は無関心』ともよく言われる。これは概ね当たっているんじゃないかと思う。

 最近になって、僕はこの心理を理解しつつある。

 嫌いなんだけど、つい見てしまうーー

 好きなんだけど、時折すごくうっとうしい、目障りだと感じてしまう。好きな女の子に「ブス!」と言ってしまう男の子のアレだ。

 

 世の中には、自分が嫌いなものをあえて見て、その悪口を言って溜飲を下げる“アンチ”と呼ばれる人達がいる。そういう人達に対して、正常な思考を持つ人は『嫌なら見なければいいのに』と突っかかるのだが、正論だけれどもアンチの人たちにそう言うのはナンセンスである。

 作品の粗探しや何かにつけて悪口を言うのは実は思いの外楽しいのである。(作者やファンからすればたまったものではないが)

 

 つい最近になって、好きだったのに嫌いになったアニメ作品がある。9人の少女たちが学校でアイドルをやるという大人気の某作品だが、僕はそのアニメを毎週欠かすことなく『くっだらねえ』と思いながら観ている。

 二年前に初めて知ったときは、それはそれは大ハマリした。Blu-rayも全巻そろえたし、ライブにだって足を運んだ。

 暗雲がたちこめたのは一年前程のことだった気がする。ファンのマナーの悪さが露呈し、ほとほと愛想が尽きたのだ。この作品を好きだなど公言すれば、コイツらと同類だと思われかねない。そんな懸念からしばらく距離を置いていたが、今年に入って作中の声を担当する声優で構成されたユニットが最後のライブをやると聞き、また復帰した。

 実際行って満足したし、やはり好きであるという気持ちは否定できなかった。

 そんな僕がまた手のひらを返し、批判をする側にまわっている。その理由は定かではないが、あの頃の熱量は今の自分にはないのは確かだ。

 

 毎週放送されるアニメを見て、何度抗議の文章を送ろうと思ったことか分からない。苦情をすし詰めにして、お中元に添えて送りつけてやろうかと考えているくらいだ。

 しかし、念のために言っておくが、これは至極真っ当な怒りで(自分ではそう思っている)たとえば、アニメ化前と実際のアニメでは性格が違っていたり(特にお気に入りだった生徒会長のキャラクターがクールで優秀な設定だったのに、早くもポンコツ化の兆しを見せている。さらに気に食わないことに、この改変は概ね評価を得ているらしいのだ。まったく腹立たしい!!)

 毎回犬との絡みを見させられたり(最新回ではついにアニメーターが実際に飼っている犬まで出てくる始末。これでは職権濫用もいいところではないか。身内ネタもほどほどにせよ)と、枚挙に遑がないのである。

 

「そんなに言うなら見なきゃいいだろ!!」

 と読んでいる方は思っていることだろう。だが許して欲しい。僕は今のところリリースされたCDは全部買っているし(うち5枚は新たに買い足して布教までしたのだ)舞台となっている静岡県沼津市にも足繁く通っている。

 

 つまり僕は負の感情が上回っているだけである程度は好きなのである。

 好きだからこそ、長年見守っているからこそ出てくる文句というものもあるのだ。

 

 僕が残念に思ったのが、場所によっては賞賛する感想しか許されず(しかもやや無理のある好意的解釈まで見られる)恨み言はひとつとして許されないという風潮が蔓延していることである。(逆も然り)

 手放しで褒めるか、気が済むまで叩くかの両極端の状況で、いくら自分もアンチ寄りとは言え、これでは数少ない良心が痛むというものだ。

 心が痛むと言えば、この記事を読んでいる人ーー某作品が好きでそのつながりで知り合った人ーーとの溝が深まっていくことである。

 この場をお借りして懺悔したいと思う。

「僕はあなたの思っているような人間ではないのです」

 

 今後も半分ファン・半分アンチとして、愛憎入り混じった複雑な感情を抱きつつ応援したり、時には早口で愚痴を言ったりするだろう。何を言われようが、いろんな角度からいじめ続けるつもりだ。

 アンチがいるのは人気の証。悪役がいればこそ、ドラマは盛り上がるというものである。

 

 

 

 

 

背中

 身近な間柄で一番話しづらいのが自分の親父だ。

 いつから互いの口数が減ったのか、はっきりとした線引ができないが、けれども心当たりならある。

 

 僕が小学校五年生になろうかという頃、親父の仕事の都合で台湾へ移り住むことになった。当時の暮らしぶりについては割愛するが、中学校二年生の春までの約三年間、僕ら一家は台湾で過ごした。地元に帰れることになったのだが、親父だけはそのまま残り単身赴任という状況になり、自分、妹、母の三人の生活が始まった。もちろん、長期休暇や向こうの旧正月には帰ってきていたし、まったく会っていない、ということはなかった。結局高校へ、大学へ進学して二回生の時にようやく親父は日本へ戻ることになった。とはいっても、上京した僕は部屋を借りて一人暮らしをするようになったので、父と別居ということに変わりはないのだけれど。

 

 去年、僕の住んでいる部屋へ親父が訪ねてきた。アパートの近くで待ち合わせていた。そこにやってきた親父を見て、思わず目を疑った。

 記憶の中の親父は精気にあふれていて、まだまだ働き盛り、なのだが、目の前の親父は頭髪はほとんどが白髪で、シワもあきらかに増えていて、背も縮んでいるように見えた。もう50代なのだから、当然と言えば当然だ。

 でも、やっぱり正直のところを言うと、ショックだった。『老化』という人間ならば必ず訪れる現象を見て、『老けたな』と茶化すことさえできなかった。それに比べたら実家にいる母親の若作りのなんと巧妙なことか。

 

 とりあえず、部屋へ上がってもらった。麦茶を出して、『部屋は掃除しているか』とか『学校はどうだ』とかありきたりな会話を一言二言交わして、それきりだんまりを決め込んでしまった。

 この時、初めて自分の父親との間にある溝が大きく、深くなっていると気づいた。もちろんそれは決して仲が険悪だ、という意味ではない。だけれども親父と向い合って、初めて気まずさというものを感じた。

 何を、どう話していいのか、まるで要領がわからず、なんとかして場をつなごうと『転勤先はどうですか』とか『食べ物は日本の方がいいですか』とかやっぱりありきたりで味気ない会話で終わってしまった。

 

 昔、まだ幼かった頃、僕は親父とどんな会話をしていただろうか。ほとんど記憶に残っていない。つくづく、薄情な息子だと思う。

 大した話はしていないけれど、でも、そのやりとりはまだ活き活きとしていた気がする。

 周りの男友達に聞いてみると、自分の父親との口数が減ってしまったのは、どうも自分だけではないようだった。皆が皆、そっけなく、一定の距離を保ちながら、それを良しとして過ごしている。

 

 この原因のひとつだと考えていることがある。

 それは、「親父の背中を見る」ということが無くなったからではないだろうか。継ぐべき家督もなくなり、人がみな自由に、なりたい自分を模索するようになってからずいぶん経つ。

 親と同じ道をたどるのであれば、問題はなかったかもしれない。子は親の後ろ姿を見て、それを手本にしていく。だが、道を違えたときには、父親は子どもと向き合うしかなくなる。

 向き合ったところで、お互い言いたいことなんてないし、ただモジモジとした時間が過ぎてゆくばかりだ。となれば、あとは黙って息子の行く末を見守るしかなくなってしまう。

 僕の場合、親父のことを知ろうとさえしてこなかった。知っていることと言えば、どこで生まれ育って、どの大学を出て、どの企業につとめて、結婚し、僕の父親となった、というくらいだ。

 親父はあまり、自分を語りたがらない人のようだし、自分から聞くこともできなくて、この関係はいまに至るまでズルズルと続いている。

 

 これは想像の域をでないけれど、きっと親父は“困惑している”。人生の岐路に差し掛かっている息子を前にして、父親として何を為すべきか。

 僕も息子として、親父になんと声をかけていいのか分からない。

 応援すればいいのか、甘えればいいのか、慰めればいいのか、感謝すればいいのか。

 困っている、と伝えるべきなんだろう。僕も、親父も、どうしていいのか分からないと。だけど、この微妙な距離感はきっと縮むことはない。

 

 それでも、僕は時折そんな親父との”つながり”を感じることがある。

 歳をとるに連れ、匙を投げるような適当な物言いが似てきたし、叔母さんからの電話に出ると、親父かと思ったと言われることも少なくないし(顔は母親寄りと言われる)タバコも同じ銘柄のメビウスを吸っている。最近では大河ドラマも見始めた。そのうち競馬も始めるかもしれない。

 (でも残念ながら、頭の良さは似なかったようである)

 

 こうした”つながり”を感じるとき、なんだかうれしくなる。親子というものを強く意識するのだ。

 

 いつか、親父と腹を割って話せる日が来るのだろうか。

 社会の洗礼を浴びて、家庭をもって、親父の苦労をすこしでも理解できるようになったのなら、そのときには『お疲れさん』と言ってあげたい。

 

 親父は家族のために頑張ってエライ、と。

 

 

先生

 世の中には、「センセイ」と呼ばれる人々がいる。先生の定義とは、「何かをしていただく」人を指す。たとえば、教師には教えていただく、弁護士には守っていただく、医者には治していただく、といった具合にだ。今回はその中の教師について書きたい。

 

 春季休暇を利用し高校時代にお世話になった中川先生という方に会いに行った。先生には国語を教えてもらった。大山のぶ代さんを思わせるような特徴的な声(これがまた表現しづらい)と独特のリズムをもった、当時の教師陣を思い返してみてもバイタリティにあふれていて、とびきり破天荒な方だ。

 さらに先生は文芸部の顧問もされていて、当時文芸部に所属していた僕は書いた小説を読んでいただいたり、いろいろ相談にのっていただいたりと、大いにお世話になった。

 その中川先生はあの時と全く変わらず、ご壮健でいらっしゃった。一年間も期間が空いてしまうと少しばかり気後れしてしまうところがある。だがそんな懸念はお会いした瞬間に吹き飛んだ。

 

 一通りのあいさつをし、お互いの近況から話ははじまった。僕が卒業した後の文芸部の目覚ましい活躍、従来の伝統をしっかりと継承しつつも、新しいことに手を広げ見事成功させていった新部長の行動力と意志の強さにはおどろくものがあった。これで、文芸部は真の意味での再建と新生を果たしたんじゃないかと思う。

 話題はそんな青春時代を共にした文芸に移った。児童数の低下などが原因で、学校同士の統廃合がなされる際、真っ先に削られるのが文芸部なのだという。どうせやる人はいないだろうと思われているのが理由らしい。たしかに、僕が言うのもなんだが文化系の中でも一番パッとしないというか、どこか暗そうなイメージがある。そしてそれは、作家という職業でみてもそうかもしれない。他の文化系で言うと、新聞部――ジャーナリストは、ハンターの如くスクープを追い求めていて活気にあふれていそうだし、美術部――イラストレーターにしても、世界をいろんな色合いで表現していて楽しそうだ。だがどうにも文芸というものは、ジメっとしていて内向的な人がやる職業のような気がする。

 

 中川先生は、文芸は「自分の中の人間として欠落している部分を抱えた人がやるもの」とおっしゃった。欠落した穴を埋めるかのように、言葉というツールを使って自分の中に世界を創りあげるのだ、と。僕自身、心当たりがないでもない。普通に今自分がいる現実を生きるだけではどうにかなってしまいそうな気がするし、フィクションがなければ生きていけない弱い人間だ。

 とはいえ、当時はもちろんそんな認識があって入ったわけではない。僕が文芸部に入ったのは、元々ゲームのシナリオライターになりたかったからである。あの頃は声の入ったキャラクターたちを動かし、音楽や演出でもって映画さながらの感動体験ができるゲーム、その中核を担うシナリオライターというものに本気で憧れていたし、自分もいつか人の心を動かすお話を書きたいと思っていた。文芸部はその第一歩で、いわば修行のために入部したようなものだった。

 実際入りたての頃は毎晩パソコンとにらめっこするほど熱中していたが、今やほとんど書かなくなってしまった。たまに書くといえば人気作品の二次創作ぐらいで、あとはエッセイぐらいなものである。この通り筆はおどろくほど遅いし、もし自分がプロの文筆家であれば路頭に迷っていたであろう。

 となればあの三年間はいったい何だったのだろうか。何一つ成果を出すことなく終わってしまった高校生活に意味などない、そう思ってしまう。行動原理や意義がなければ動かぬカラダになってしまったようだ。

 先生は、全てのことに意味があるともおっしゃった。やり続けてさえいれば、いつかその意味を見出すことができると。

 

 やりたいと思ったらとにかく行動に移せ。いつかきっと意味が見いだせるはずだから、臆せず進め――これが、今回得た教訓だ。

 中川先生と話をしていると、高校卒業間際のことを思い出す。進路が決まった僕は先生の提案で卒論と称して道徳をテーマに調べものをしたり、毎日相談にのっていただいた。わずか一週間ほどのことだが、本気で考え、本気で取り組んだあの時のことが、今の僕の礎である。

 

 中川先生はいたって普通のセンセイであり、僕にとってはホンモノの先生だ。