鍋春菊のメルティング・ポット

アニメだろうが実写だろうがそれがなんであろうが面白けりゃいい!そんなハンパモンのブログ

3.11から三年。当時を振り返る

本日2014年3月11日。あの「東日本大震災」からちょうど三年が経ちました。

 

震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

 

当時、私は中学校の卒業式に出ていました。式が終わった後、仲の良い友人二人と遊ぼうということになり、私は昼食を終えた後、近所の友人とその友人が待つ家へと向かいました。北国ですから、その日もそれなりに雪が降っていたと記憶しています。雪道を歩き、その友人宅へと到着しました。飲み物やお菓子を買おうということで、その家の近くにあるスーパーへと向かいました。

 

震災が起こったのは、その直後のことでした。地震を外で経験したのは初めてですから、恐怖よりも興奮があったと思います。恐怖を感じたのは主要動が襲ってきたあたりです。電線や買い物にいくはずだったスーパーに駐車してある車も例外なく揺れていました。私はとっさに家にいた母親に携帯で連絡をとりましたが、混雑していてなかなかつながらず、近所の友人のお父さんの車で家まで連れていって頂きました。

 

母の話によれば、家の中も相当揺れたそうです。家は比較的高いところにあったものですから、揺れもかなりあったのでしょう。幸い、崩れたりや、電球が落ちてきたというようなこともなく、飼っている犬も無事でした。ただ、電気が切れているため、テレビも携帯でみるしかありませんでしたし、バッテリーが切れると今度はどうすればいいのかわからなくなりました。ただじっと復旧が終わるのを待っていたと思います。当然暖房も入らないので電源がなくても大丈夫なストーブで寒さをしのぎました。冷蔵庫も使えません。なので、夜はストーブを使ってお湯を沸かし、カップ麺を食べました。

 

あれだけ静かな夜はありませんでした。

 

発災から翌日の2011年3月12日。朝はやくから、私は母と一緒にスーパーに必要なものを買いに行きました。お一人様◯個までと決めてありました。それからガソリンを入れ、家に帰り、復旧を待っていたと思います。テレビもつかないため、今がどういう状況なのか、全く外のことは分からなかったため、ただ漠然と大丈夫なのかと心配していました。

 

そんな外の事情に触れる機会が訪れました。家に太陽光で発電できるシステムがあったため、急いで延長コードでテレビと、そしてインターネットで情報を集めるために無線ルーターに電気を通しました。海外にいる父にこっちは大丈夫というメールを送りました。

テレビでは宮城県福島県被災状況、福島第一原発の状況が伝えられていました。

そこで初めてこの大震災が引き起こしたものの強烈さを知ったのです。津波で流される車や瓦礫の映像は今でも目に焼き付いています。

 

この大震災で命を落とした方は一万人以上にも登ります。中には、最後まで避難勧告を続け、亡くなった方もいると聞いています。

 

これだけの災害がもし私の住んでいる地域で起こったのなら――私は生き延びることができるだろうか?

自分が現在生きていることに感謝せずにはいられません。この感謝を忘れずに、生きて、この大災害を教訓として、つなげていきます。