真心
久しぶりに原稿用紙と格闘している。前回の記事から実に二か月が経とうしてしまっていた。その間にも、いろいろ書き留めておきたいことはあったのだけれど、大学の試験に追われていてそれどころではなかった。とはいえ、筆をとるのがまったくの久しぶりというわけではない。
この数か月、何度か手紙を書く機会があった。宛先はどれも僕の大好きな声優さんである。要するに、試験日が迫っていたにもかかわらず、やりたいコトはキチンとやっていたのだ。不真面目なコトこの上ない。その後、ヒーヒー言いながら一夜漬けをしていたのは言うまでもない。
最初に手紙を送ったのは今年に入ってすぐもすぐ、元日に行われたイベントの時だった。よくそういう類のイベントに行く方はご存知でしょう、会場に行くと大抵出演者の名前が貼ってあるボックスが並んでおり、そこにファンレターやプレゼントを入れるというシステムになっている。以前から見かけてはいたものの、一度も書いたことはなかったのだが、なんとはなしに、僕もファンレターを書いてみようと思ったのである。
とは言うものの、お手紙と呼ばれるようなものはもう何年も書いていない。(しかも直筆で!)余談ながら僕は普段の字がとてつもなく汚い。うすくてちいさくて、まるでミミズがのったくったような字で、自分でも読んでいてたまに解読できないことがある。そんな自分がちゃんと、相手にも読める字で手紙を書けるか、恐怖でもあった。
とりあえずそんな懸念は捨て、便箋と封筒と、それから万年筆も購入した。プレゼントであるとある映画のブルーレイのラッピングも済ませ、あとはいよいよ手紙を書くだけとなった。はじめから便箋には書かず、ある程度ルーズリーフに下書きをしてから清書をすることにした。
用紙との長い睨み合いがはじまった。
いろいろ普段その人について考えていることはあるものの、それをいざまとめて文章にするというのは実にむつかしい。書こうとはおもっているのだけれど、どうもまごまごしてしまう。以前から小説を書いていたこともあったので、書き出しが大変だというのは身に染みて分かっていた。(この記事の出だしも数十分ほど考えた)
困り果てた僕は今回その方へ出すのが初めてということもあったので、ファンになった経緯を時系列順に書いていくことにした。出演している作品を見て感じたこと、イベントで初めてみたときの印象なんかを書き連ねていった。いちど波に乗るとスラスラとコトバが出て、しだいに書くコトが楽しくなった。普段は遅筆な自分なのだが、これほど書けるということに嬉しささえ感じるくらいだった。
ルーズリーフであらかた書いたのち、実際に便箋へ清書した。このときばかりは緊張でいっぱいだったのを覚えている。汚い字にならないように細心の注意を払って書き写しをしていく僕の脳内ではドーパミンが大量に分泌されていたにちがいない。普段勉強しているときのそれを遥かに上回る集中力を発揮していた。
程なくしてA5判便箋3枚に及ぶファンレターに仕上がった。最後にはプレゼントである映画の見どころなども書いて、なんとか手紙として許容できる量で収めることができた。
できあがった手紙は何度も読み返して、失礼な点がないか誤字脱字がないか入念なチェックをした。この文を相手が読んでどんな印象を持つのか想像すると、とてもこわい。しかしファンレターは基本的に返事が来るというものではない。そう思うとむしろヤケクソというか、出し惜しみなく書けるというものだ。もはや筆まかせである。
手紙を送りたくなったのはもちろん伝えたいことがあってのことだった。小説や今書いているこの記事も『何かを伝えたい』という想いが原動力になっている。しかし、手紙がこれら二つと大きくちがっているのは、『特定のだれかだけに伝えたい』という点に尽きる。今やSNSやラジオ番組のおたよりなどで出演者と交流を図ることはそう難しくはない。だけれども、それらは公の目に触れることになる。手紙を書く人というのは、そういった『できあいのコトバ』では不自由を感じる人たちなのだ。公然で言うのは憚られるようなナイショのコトバ。彼らは自分だけのコトバを持っており、それはわざわざ文章にしなければならないくらい大切なものなのだ。
なにかを贈るという行為は、相手を思いやる行為である。
僕の手紙が相手にどう感じ取られたのか、そもそも読まれたのか、それは僕の知るところではない。これからも懲りずに手紙を送り続けることだろう。
後日、僕はその時の下書きを読んであまりのむず痒さに赤面した。この原稿も、おそらくあとから読み返したら恥ずかしくてしょうがなくなるかもしれない。あとから追及されても白を切る。なにせこれも『筆まかせ』、僕が書いたんじゃなくて僕の筆がかってに書いたんですから。
この記事の下書き。手書きの方が捗る。
安堵 アンド
夢にまっすぐ。
タイトルは下町ロケットのキャッチフレーズ。
私は普段TVドラマに熱中することはないのだが、この下町ロケットは久々の大当たりドラマであった。半沢直樹からのファンである私は、既にこの原作を2年程前に読んでおり、今回のドラマ化の話を聞きつけ絶対観るぞ、とマーキングしていた作品でもあった。
実際の出来は期待通り、いやそれ以上のものだった。テレビ画面に釘付けになるなんて、アニメ観ていても滅多にない。
やはり人間ドラマはいいものだ。
知らない人のために簡単に説明をすると、「日曜劇場 下町ロケット」は、あの半沢直樹、ルーズベルト・ゲームで知られる池井戸潤さんの小説を原作としたTVドラマであり、半沢チームが制作している。
研究者の道を諦め、家業の町工場である佃製作所を継いだ佃航平がある日突然商売敵の大手メーカー=ナカシマ工業から特許侵害で訴えられ、取引先や、メーンバンクの信頼を失うなど窮地に落とされるところから話は始まる。
夢に向かう男たちの名言が熱い
佃航平(阿部寛)をはじめとする、モノづくりにひたむきな情熱を表した漢達の名言、名シーンに私は何度も心を打たれた。
ナカシマだろうと、佃だろうと、そんなことはどうだっていいんだ!皆がこれまで必死に培ってきた技術や志を、次の世代に繋げていってもらいたい。技術進歩が止まってしまったら、世の中の発展はない。
ナカシマとの訴訟費用に苦しむ佃製作所。だがその本当の狙いは佃製作所の株式の51%の譲渡、つまりは買収だった。ナカシマ工業の傘下に入るしか生き残る道はないと決断する佃が、開発部門の山崎光彦(安田顕)に思いを託す。これからも創り続けてくれ、と。
佃社長のモノづくりへの想い、その根底にあるのは技術によって人々を幸せにすることだった。大企業や、中小企業などという看板は関係ない、人のために尽くすことが佃航平のモノづくりに対するプライドなのだ。これは後に「佃品質 佃プライド」と会社のキャッチフレーズにもなる。
そうして、今回の件でケジメをつけて身を退くと言う佃を経理部の殿村直弘(立川談志)が引き止める。その台詞もアツい。
俺が銀行に入ったのは、能力や技術はあるのに、日の目の見ない企業を助けたかったからです。銀行員として、ものづくり日本の手助けをしたかったからです。
社長、あなたは夢に愛されている。
だから! 逃げちゃいけない。お願いだから、諦めないでください。
銀行員の端くれとして何百の会社を見てきた。
佃製作所は良い会社です! 守りたいんだ。
経費の削減のために出来る限りのコストカットをし、そのせいで周りによく思われていなかった殿村。だが彼がそうするのは佃製作所を守るため、佃航平という人間に惹かれたからだった。佃製作所を想う気持ちは誰にも負けてない、と思いの丈を吐露するシーン。トノさんが一番好きなキャラかもしれない。
夢にまっすぐ。
本作では「夢」というワードが頻繁に出てくる。このドラマを観ていれば、きっと共感したり、あるいはハッと気付かされたこともあったのではないだろうか。
この現代ニッポンで、自分の夢を堂々と言える人がどれほどいるだろうか。おそらく多くの若者たちは、あっても夢物語であると結論を下し、現実的な思考に至るのがほとんどだろう。それは、夢のハードルが大きければ大きいほど、その傾向は強まっていく。
好きなことを仕事にできたら、どれほどいいだろうか。
きっとアイドルに憧れた女の子は芸能界を目指すだろうし、スポーツ選手に憧れた男の子は必死で努力をするだろう。
声優、小説家、ゲームデザイナー。そういった芸術の世界に憧れる者もいるだろう。
だが誰もがそうであっては困るのだ。行政や経済やインフラは崩壊するし、コンビニで買い物なんてできないかもしれない。
誰もやりたがらない仕事を請け負い、人々の暮らしを支えている人たちが影で大勢いるのだ。現代社会はかろうじて絶妙なバランスを保っている。
私はかつて、夢に対しては否定的だった。どうせ叶いっこない、失敗した時のリスクを考えると、夢なんて到底追っていけない。
どこか冷めたような目で見ていた。
その意識が変わったのは、いや、目が醒めたと言ってもいいだろう。私の友人がゲームの専門学校に進むと聞いたことがきっかけだった。入学してから三年間クラスが一緒だったソイツと話をして、ゲームへの真摯な思いを感じ取った。
自分の夢を叶えるためとはいえ、実際にその道に進むという決断をすることは、並大抵のことではない。そんなアブナイ橋を渡ろうとするのは余程自信があるか、あるいは無鉄砲な馬鹿かのいずれかだ。その大きすぎる第一歩を踏み出した彼を、私は心から尊敬している。
夢に向かって努力をしている人たちは本当に魅力的だし、素敵だ。下町のトノさんではないが、自然と応援したいという気持ちが込み上げてくる。
人はもっと、自分の夢のために生きてもいい。
私の周りにもリアリストであるが故に夢を断念し、燻っている奴がいる。プロから見たらたしかに遠く及ばない腕前かもしれない。だが、それで萎縮しないで欲しい。もっと自分を信じて欲しい。
周りなんてどうだっていいんだ、大切なのは、自分が好きかどうかだ。
俺は全力で応援する。
下町ロケットの原作「下町ロケット」と、ロケットから人体へと挑戦をする「下町ロケット2 ガウディ計画」は小学館から大好評発売中だ。技術に関する知識がなくとも夢中になれる作品なので、是非おすすめする。
【感想】中古でも恋がしたい! 第一巻
【あらすじ】
日夜エロゲーに励む高校生・新宮清一はある夜、新作エロゲーを買いに行った帰りにトラブルの現場に遭遇する。複数の男たちに取り押さえられ、身動きのとれない少女、だが彼女の見た目はいわゆる“不良少女”だった。それを見咎めた清一は自業自得、と見て見ぬ振りをしようとするが、良心の呵責からかスマホからパトカーのサイレンを鳴らし男たちを追い払うことに成功する。
迎えた翌朝、清一は校内一の不良と評されるクラスメイトの綾目古都子から唐突にアプローチを受ける。さらにその次の日に告白まで受けてしまう。「中古」と渾名まで存在するほどだった彼女は、清一の趣味に合わせこれまでのイメージを払拭するほどの“純情少女”になっていた。彼女のこの清一は告白を拒否、しかし古都子は「絶対お前の理想になる」と宣言する。その熱意振りは彼の趣味であるエロゲーを研究するほどであり、清一は困惑しつつも彼女を同志として認め、やがて行動を共にするようになる。
古都子の貞操観念、カツアゲの仲裁、彼女の行く手を阻む不良仲間。清一は古都子の実際の性格が噂とかけ離れていることに疑問を抱く。またそんな中、古都子の幼なじみでありクラスのアイドルでもある声優の初芝優佳からも告白を受ける。清一は同じく拒絶するも初芝が古都子に宣戦布告する。まさに両手に花の状況だが、その二人の影には共通の『因縁』があり――
美少女ゲームへの愛で満ちた、オタク系主人公による嘆き
さて、今回は予告どおり、先日のドラマCD版「中古」の原作をレビュー。
前回は本書を原作としたサウンドドラマのレビューを行った。大まかな人物については参照して欲しい。
【感想】ドラマCD 中古でも恋がしたい!~ぜってーお前の理想になってやる!~ - 鍋春菊のメルティング・ポット
中古よりも新品がいいに決まっている。見知らぬ他人がベタベタ触った指紋付きのチョコレートを食べられるか? まともな奴は食えんだろう。
作中で、攻略したキャラが最後の最後に非処女だと判明した後の、彼のモノローグから抜粋。
主人公の熱烈な二次元、処女崇拝と今日のオタクの痛さの象徴と言える「乙女願望」が字面からムンムンと伝わってくる。こういった思想はまさにリアルを捨てた人間のそれである。
俺も含めてオタクの処女信仰、いわゆるガチの処女厨は、もっと奥深くから異常なほど潔癖だ。
(中略)
それを気持ち悪いという人もいるだろう。
自覚してるさ。世間からすれば、受け入れられないマイノリティであるということも。
彼はそれを自覚しているのだ。自分が受け入れられない気持ちの悪い存在だということを。その自覚の現れは、なるべく学校では18禁ゲームの話をしないなど、実生活の中で垣間見ることができる。要するに彼は分別のあるオタなのだ。思想そのものは褒められたものじゃないと私自身は思うが、思うだけなら自由である。幸いにも日本では思想・良心の自由は絶対無制約保障がなされている。
古都子や初芝にアプローチされてもなお、その信念を曲げないあたり、本当に筋金入りのオタクだ。
この通り本作品は美少女ゲームへの深い愛と熱量でもって書き上げられている。「18禁ゲームのコーナーで知り合いと出くわしたら、見て見ぬ振りをする」などオタク文化のアングラ臭がユーモラスに作中のイベントに盛り込まれている。
美少女ゲームよりゲームゲームしたプロット
本書はリアルには縁もゆかりも興味もない〈処女〉厨の少年が援交や万引き等犯罪の噂が尽きない〈中古〉の渾名を持つ不良少女に惚れられることによって始まるラブコメだが、なんといってもこの話の核になるのは綾目古都子と向き合うことで生まれた疑念――噂と実際の性格の不一致――を解消するための『真相の追及』である。
彼女は本当に非処女(ビッチ)なのか? あるいは環境によって歪められてしまったのか、ただ単に気分の問題だったのか?
清一はそれを確かめるべく友人の外崎啓太や、教師でありながら従姉妹の小谷桐子に聞き込んでいく。そこに電撃告白を仕掛けた初芝優佳が加わり、次第に古都子の過去が明らかになっていくという謎解き要素を持っている。美少女ゲームのようなシチュエーション、世界観ながらその実内容はすこぶる小説らしい。場合によっては、昨今の美少女ゲームよりも、ゲームゲームしたプロットかもしれないのだ。
どういうことかと言うと、最近の美少女ゲームでは選択肢こそあれど、それはあくまで好感度をどのキャラクターに振り分けるかを決めるためのものであり、シナリオを直接動かすものではない。プレイヤーはリニアなレールの上で目当ての娘を落とすために選択をし、極端なことを言えば、あとはぼーっとしながらクリックするだけでエンディングを迎えることができるのだ。恋愛が前提となっている故の制約なので、どうしても作り方は決まってきてしまう。
だが本書では、主人公である新宮清一は自らに生じた疑念をはっきりさせるために様々なキャラクターと関わり、イベントに巻き込まれていく。周囲に散りばめられた伏線を必要であれば能動的に回収し、組み立てあげることで一つの真相を浮上させる。これは謎解きミステリーのようなインタラクティブなゲーム性に近似している。彼は物語の語り部であると同時に、バラバラになったパズルのピースを繋ぎ合わせる役目も負っているのだ。
【まとめ】
この作品は、美少女ゲームの世界観に上手く小説ならでは技法を用いて切り込むことに成功している。聞けば、作者の田尾氏は美少女ゲームのプランナーをやっているそうだ。時たま清一が漏らす『それどんなエロゲ』もおそらく意図して挿れられているのだろう。
美少女ゲームから生まれたライトノベルが見事に親殺しを成し遂げ、独自のアイデンティティを獲得してるのである。
残念だったことと言えば、黒幕が擁護のしようがないほど典型的な屑で、登場人物の憎しみを一点に引き受けてしまっていることだろうか。少し安直だな、とは思った。
しかしそれを差し引いても今作はライトノベルとしてはかなり面白い部類に入るだろう、でなきゃこんなレビューはしない。
私の「ラノベ嫌い」克服の第一歩として、なかなかの読み応えを感じた作品だった。
ぜひとも、続編も読みたいものである。
3.11から三年。当時を振り返る
本日2014年3月11日。あの「東日本大震災」からちょうど三年が経ちました。
震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
当時、私は中学校の卒業式に出ていました。式が終わった後、仲の良い友人二人と遊ぼうということになり、私は昼食を終えた後、近所の友人とその友人が待つ家へと向かいました。北国ですから、その日もそれなりに雪が降っていたと記憶しています。雪道を歩き、その友人宅へと到着しました。飲み物やお菓子を買おうということで、その家の近くにあるスーパーへと向かいました。
震災が起こったのは、その直後のことでした。地震を外で経験したのは初めてですから、恐怖よりも興奮があったと思います。恐怖を感じたのは主要動が襲ってきたあたりです。電線や買い物にいくはずだったスーパーに駐車してある車も例外なく揺れていました。私はとっさに家にいた母親に携帯で連絡をとりましたが、混雑していてなかなかつながらず、近所の友人のお父さんの車で家まで連れていって頂きました。
母の話によれば、家の中も相当揺れたそうです。家は比較的高いところにあったものですから、揺れもかなりあったのでしょう。幸い、崩れたりや、電球が落ちてきたというようなこともなく、飼っている犬も無事でした。ただ、電気が切れているため、テレビも携帯でみるしかありませんでしたし、バッテリーが切れると今度はどうすればいいのかわからなくなりました。ただじっと復旧が終わるのを待っていたと思います。当然暖房も入らないので電源がなくても大丈夫なストーブで寒さをしのぎました。冷蔵庫も使えません。なので、夜はストーブを使ってお湯を沸かし、カップ麺を食べました。
あれだけ静かな夜はありませんでした。
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